用意された世界で

『誰かが用意してくれたもの』ばかりに囲まれるようになって、唯一そうではないものが自分自身。

それ(体や生命、自然そのもの)の中には、ごまかせない現実がある。

自分では建てられない家。用意できない食べ物。理解できないスマホやAI。

自分以外の大勢の人たちの知恵や知識を結集して生きられることは人間の大きな強みではあるけれど、それが最大の弱点になってしまっている。

これらはどこかでごまかされていても、ほとんどの場合気づくことすらできない。

そしてその傾向は強まる方向にどんどん進んでいる。

しかしそんな中で、そうではないもの(自分自身)を自分でなんとかしていく方法を知るということは、『誰かが用意してくれたもの』に振り回されない方法を知ることだと、カラダの使い方を研究し始めたころから感じていた。

誰かが使いやすいように用意してくれたものとは違い、取り扱い説明書すらついていないのが自分(の体)との向き合い方だ。

これはどこまで行っても自分がやるしかない領域で、誰かに用意してもらうことはできない。

誰かが用意してくれた世界は、それ自体がどうなってしまうかについては自分はほとんどどうすることもできない。

そのような世界に頭のてっぺんまでどっぷりと浸かり、その世界が崩壊した途端生きる意味や方法を見い出せず、人は自殺をしたりするのかもしれない。

あるいは心地よい世界を壊さないためには汚いことだってなんだってやるのかもしれない。

自分にしかできない世界、自分がやるしかない領域での様々な知識や知恵にこそ、そのような『外の世界』に振り回されずに生きる方法があるのだと思う。

自分の『外』ではなく『中』に拠り所を見つけられれば、極度に怖がることもなく、何もなくとも充実することもできる。

これを観念的な話で留めるのではなく、実際の生活において実現する手段が『カラダの使い方』なのだと思う。

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